平池来耶 公式サイト

雑誌原稿1「自身の神秘体験」

「人はなぜ、死に向かって生きていくのか?」

来耶先生は幼少の頃から”霊的な体験”をなさってきたということですが、スピリチュアルなお仕事に携わることは、ごく自然のなりゆきだったのですね。

「あるとき突然、何かが降りてきて一夜で変わったというのではないんです。人の身体はやがて衰え、なくなるわけですが、はたしてこれだけなんだろうか。いや、魂は連続したものであるという直観が幼少の頃から私の中にあって、ではなぜ人は”死に向かって”生きていくのか、何処から来て何処へ行くのかというのが、一番のテーマでした。

神秘体験の始まりがいつであったか覚えていませんが、あるときは心の”闇”の部分が視覚化されたり、あるときは”慈悲”に包まれる体験をしたり・・・・その状態は自分の名(我)もなく、万物をただただ感受している状態で、あるがままのすべてが美しく輝いていました。自分のこの霊的体験が何であるのか、教えてくれる人がいませんでしたので、哲学や神秘学の本を読み、受けたメッセージを解読していくと、また新たな神秘体験があり・・・・その繰り返しでした」

認めるときが、開かれるとき

それでは、来耶先生が特別に”開かれて”いたのかというと、それは「誰しもそうなんですよ」と、来耶先生はおっしゃいます。

「多くの人が、自分が深い次元での意識、スピリチュアルな領域にアクセスしている事実を自分で認めていないんですよ。ピン!とアイデアが”ひらめいた”瞬間や、恋愛などを通して”心が温かく、愛に満ちている常態”のときなど、意識の深いところの自分とチャンネルが通っているということなんですよ。

明晰な夢も、多少脚色して見せてくるので解釈が要りますが、そういう部分とつながっています。

そういうことが普通に行われていたりするんですね。それを勘違いや錯覚として片付けてしまわず、ただ、そこに見合った価値を認めるかどうかということだけなんです。

たとえば悩んでいることを”何で悩んでいるか”、自分自身に問いかけていく。それは落ち込むためじゃなく、なんとか光を見たいからなんですよ。これは”本来の姿じゃない”ということを、どこかでわかっているんです。本当は愛を知っている、喜びを知っている。その最も究極の姿を”大いなる源”・・・・と私は呼んでいますが、ちゃんと、いつでも自分自身の中にあって、それを神とか、菩薩とか、天使とか名前をつけてもいいでしょう。けれども、問題は名前にあるのではなくて、”それを知った自分自身”にあるんですよ!」

 

自分の中にあるものを、同じだけ”かまう”こと


よく”前世でこういう悪いことをしたから、今、こうやって苦しんでいる”ということを耳にしますが、それは「前世を素人的にとらえている」と来耶先生はおっしゃいます。

「現実に起こる問題には、ある程度カルマというものも関係しています。が、前世と今世をつなぐ絆であるカルマ自体は非常に”中和的”なものなんです。バランスの法則なんですよ。カルマは深い次元の意識・・・・魂意識と私は呼んでいますが、それに目覚めるために与えられた”宝”なんですよ。霊視をしていると、その人が得てきたもの学んできたものがいっぱい伝達されます。その人が思っている以上に、すごく”宝”をもっていて、本当にね、人は素晴らしいんですよ!」
 でも、その素晴らしいということに気づいていない人のほうが多いと思うのですが・・・・?
「本当は気づいていると、私はとっているんです。ただ、生まれてこのかたまでの環境や、世の中の風潮、自分の思い込みや許せないことなどいろいろなものによって、”ここから、ここまでよ”という境界線を引いてしまっている。自分のここは好きだけれど、ここは認めたくないとか。良い悪い、正誤というふうに私達は”二分化”して見るクセがついています。その両方を、”同じだけかまう”といいましょうか、境界を越えて、中立的に見ていく。人間がなぜ素晴らしいかというと、欠点もいっぱいあるからなんですよ!いいと思うことばかりに目を向けるのではなく、自分の中にあるものをかまっていけば、切り離していたものがどんどん統合されていき、意識はどんどんスピリチュアルな性質に向かい、自分を越えた、”見晴らしの良いところ”へ行きます。」

思い込みとこだわり


「自分のここは良いけれど、ここは良くないという思い込みがあると言いましたが、人は実は、さまざまな思い込みやこだわりによって苦しんでいるんです。”こうあるべき””~しなければならない”ということで、人生の時間を使っていくならば、楽しいこととか、自分らしいことから遠のいてしまうんですよ。
では、どうしたらよいか。苦しいときこそ、思い込んでいることやこだわっていることに気づくチャンスですから、まずは苦しみから逃げるのではなく、”苦しい”と感じている自分を十分に感じ取ってください。”なぜ、私はこの状況を苦しいと感じているんだろうか”と自分に問いかけていく。内面に対して”対話していく習慣”をつけていくことです。
こだわりの声は、魂の声とイコールであることはほとんどありません。魂の声でないということは、たいして重要ではないということですが、思い込みやこだわりは”ないと生きていけない”ように錯覚してしまうんですね。周りが持っているのに、自分は持たないというのも、今の時代ではまだ難しいかもしれません。
けれど今の苦しみは、魂が”その思い込みやこだわりだけでは、もう先へ進めませんよ”というサインを送ってきているのですから、そのこだわりをひとつ浄化していく、クリーニングしていく。そうしていくことで、本質、そして真実へと向かっていけるのです。
こだわりを捨てることで自分というものが壊れてしまう、またみんな一律、一緒になってしまうんじゃないかと感じる人もいるかもしれませんが、全くその逆なんですよ。それぞれが輝き、まさしく”その人が、そこにいる”状態になります。その人が出てくるんですよ。その違いが、本当に面白い個性となって、より良い形でネットワークを結んでいけるようになるんです。」

つながりたいのに、遠慮?

また最近、気になることとして、こんなお話もいただきました。
「心の時代と言われて久しいですが、人に何かを与えたい、共感していきたいと望んでいる人は非常に多くなってきていると思います。ただ、行動していくときに”本当はこうしてあげたいけど、拒絶されたらどうしよう。変に思われるのではないか。相手にとって迷惑なのではないか”と尻込みしてしまうケースが多いように思います。相手とすごく”つながっていたい”と思いながら、遠慮していたり、一歩引いている人が多いんですね。
時代が多様化して、自分の価値観に自身をもてなくなっていることもあると思いますが、”自分の中に納めておこう”とする。そうすると、なにより”本人がそれを楽しめないし、喜べない”。そこで言いたいのは、自分が”こうしてあげたい”と思うことが、相手にとって迷惑や逆効果になることは当たり前にあるんだよ!ということ。だからしないのではなく、だけど、する。NOと言われたら、その”NO”に耳を傾けるのです。そうすることで相手と自分の違いが見えてくるし、また共通の部分も見えてきます。そこで”共通の部分”に焦点を合わせ、”してあげたいことを、やった自分”を褒めてあげられるならば、自分を尊重し、愛するのにおおいに役立つのではないかと思います。
今、相手との相違が見えるといいましたが人は”映し鏡”なんです。人は、人と接してしか本当のところ自分を知ることはできないんですね。人と接したときの、自分の感情などの”反応”によって、自分を知っていくんです。ここでのコツは、たとえば怒りに任せて相手を責めてしまっても、それを”我”と思わないことなんです。そういう”反応をしてしまった”が、それが何をあらわしているのかを自分に問いかけていく。”嫌いな人”がいるとしたら、嫌っている自分をそのまま受け入れ、”今のところ、避けることを選んでいる”、でも、なぜだろうか?と。必ず、答えというものは返ってくるのですから」

 ”誰しもが”という言葉を、何度も強調された来耶先生。来耶先生のもとへリーディングの依頼に来た人も、やはり誰しもが、”下駄をそのままあずける”ことはしないといいます。「おしゃれと一緒で、みんな自分をきれいにしていきたいんですね。実は、未来を知る簡単な方法があるんですよ。今の自分が、未来を創っていますから。今の自分の思考エネルギーと感情エネルギー、つまり”想念”のエネルギーが、現実を創っているんですよ。24時間、365日、どんなことを考え、どんなことを感じているか。だから、自分と無関係に現実は起こることはなく、起こることは全て”自分の中”にあるんです。そして、その”想念”のエネルギーを、ずっと人は”放送”し続けているんですよ」
 ベクトルの違う、ふたつの同じ強さの想念を放送すると(たとえば、あることをしたいという思いと、できっこないよという思い)、何も変わらないということが起こるのだとか。
「人は、本当は自分を責めたいのでも、相手を責めたいのでもなく、しらけたいのでも、こもりたいのでもないんですね。人として一番苦しいことは、自分を尊重できないこと、自分を信頼できないことです。誰しもの望みとして、自分を尊重し、信頼したい。私は、その魂の声を叶えてあげたいと思っているんですよ」
という来耶先生の言葉がとても印象的でした。

コラム部分)

”キレイの秘密は何ですか?”

凛とした雰囲気にエキゾチックなお洋服をまとっていらっしゃり、いつお会いしてもキレイな来耶先生。その秘密をうかがいました。             
美しさというのは真の意味で、”その人らしさ”ということですから、その人がどんなに泣き顔であっても、怒った顔であっても、とぼけた顔であっても(笑)、その人がその人に向かっているときというのは非常に美しいんですよ。自分自身に向かっているというのは、どんな小さなことだって自分を知ろうとしているあらわれですから。それが深いところまで行くと、すべての人や万物と一体化している感覚につながっていきます。そして、そこには必ず「楽」という感覚が生じます。ですので逆説的に聞こえるかもしれませんが、私はいつも「楽」であることが、美しさを引き出すかな、ととらえています。
また気分的、感覚的に楽しいと、自然と生き生きしてきますよね。不思議と洋服も、着ていて楽しいか、楽かで選ぶと、たいがいその人に似合うオーラのものを引き寄せたりしますね。夢のシンボルとしても、服を着る夢は”自分が外の人達に対して、どう体裁を繕うか”という仮面をあらわしています。
実生活においても服というのは社会で生活していくための、ある種、仮面のようなものといえますが、楽しく、楽にしていれば、自然と自分のオーラに合ったものを引き寄せるんですよ。
忙しくて”こうしたいのにな”ということがあってもできないとか、楽しいことが見いだせないという人は、何でもいいから楽なこと、楽しいことをやってみるといいですね。自分の半径数メートルぐらいの、自分の部屋の中だけでも”楽しいもの”があると思うんですよ。要は「楽しいものを見つけよう」という視点と、気持ちでしょうね。どこかへ行ってやらなきゃいけないとか、何かを取り寄せて始めなきゃいけないというものは、用意するまでにエネルギーを使いますよね。もちろん、それが楽しいものであったり、十分な時間があればエネルギーなんて感じないですが、もしもおっくうさがどこかにあるのならば、こうやったら楽しいだろうな~と”思い続けている自分”が実現してしまうんですよ。つまり、実際に「接している」、楽しさを体験している自分には向かわないんですね。自分が望んでいる楽しいことに”近い”こと、楽なことを、ただただやっていると、楽しいことをどんどん引き寄せるようになってくるんですよ。案外何の用意もなく、”こうしたいのにな”ということに、すんなり結びついていく。導かれていって、実現するんです。

説話社月間「MISTY」より

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